平和を語る & 「自由通信」
阿部美保子・歌集「早池峰(はやちね)の山」を自主出版(2冊目)---2024年8月

 

阿部美保子さんは、近年目が弱くなって白杖を使用しています。でも現在も、九条の会の例会や集会などには、白杖を突きながら積極的に参加されています。頭が下がります。

この歌集は、ご自身が長年詠まれた短歌を、パソコンでご自身がまとめて出版したものです。
中にはエッセイも掲載されています。これまでの人生の歩みや、戦争反対!憲法を守ろう!9条を生かそう!という平和運動への熱情も感じられる、本当に心に染み入る歌集です。

短歌を通じて、平和運動の幅の広さも感じられます。阿部さんの生きてきた証も、この「歌集」には綴られています。推奨いたします。内容について詳しくご紹介できないのが残念です。
文責:HP担当者

「歌集:早池峰の山」に掲載されている短歌の一部を、下記に紹介いたします。

 

95歳・澤地久枝さん、正月3日に国会正門前で「9条守れ!」と訴える。

2025年新春国会前スタンディング正月3日、国会正門前には「戦争反対」「9条守れ」「辺野古新基地建設反対」「原発再稼働許すな」などのプラカードを掲げた人が大勢集まった。

九条の会呼びかけ人の、澤地久枝さん(95歳)や、憲法君でおなじみの松本ヒロさん、ジャーリナストの金平さん、「平和を愛する」多くの市民たちが、10年前の「安保法制強行採決」以来、毎月3日は国会正門前でプラカードを掲げてきました。
参加者250名、当会からは4名参加。お隣の韓国では尹大統領の「戒厳令発動」を市民が6時間で解除させました。
韓国国民が民主主義の大切さを肌で感じ声とコブシをあげ続けてきたからです。
私達も、澤地さんや韓国国民のように、「NO!WAR」の声を上げ続けましょう!

 

 

高島平自由通信

「守るべき人びと」---- 齋藤誠一 ---- 2025年1月

改憲勢力は、憲法が権力を縛るものから、国民に義務を強制するものに変えようとしている。
そもそも公務員は、採用の際に、
「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。」
との宣誓をしている。

しかし、「特別職」国家公務員の国会議員は、当選しても「宣誓」することはない。
憲法は、
「第九十九条天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
と、
憲法尊重養護義務を定めているにも関わらず、改憲勢力には見えないのであろうか。国会議員、各級議員にも「宣誓」させる必要があるのではないか。

今年の総選挙をはじめ、投票率は相変わらず低い。しかし、自公与党の過半数割れ、衆院で改憲勢力に3分の2を与えなかった国民の選択を、来年の参議院選挙での政治の転換とともに憲法を政治に生かすことにつなげていくため、より宣伝や対話を強めていくことが必要だと痛感している。

間もなく92歳ありがとう ---  石倉 領 --- 2025年1月

戦後80年・改めて平和への努力を私、昭和8年、長野県上田市生まれ。5人兄弟の末っ子。今、父母姉も兄も,皆他界した。私一人生き残っている91歳。
妻は昭和12年生れ。間もなく88歳。世間では目出たい年令。五人兄弟の長女。新橋田村町で生まれた。

今、弟が一人居る。私の長兄は陸軍に召集され、千島シベリア抑留三年を経て28歳で帰還。寒さに強く、この日本の寒さが「気持ち良いと」言った。
次兄は少年飛行兵、特攻隊に編入され突入寸前に終戦となり、朝鮮から帰ってきた。家族に戦死者は居ない。しかし父・兄達の苦労そして自分を含めて残された家族の苦労を思うとき胸が詰まる。ありがとう。

妻は小学生のとき、疎開先仙台で母親と幼い兄弟を連れて米軍の空襲下を逃げ、炎が目の前にせまるなか助かった。私も燃えさかる炎のなか家族と逃げ、広瀬川のほとりで助かった。共に昭和二十年七月十七日の夜、米軍の仙台空襲の中であった。
まもなく八月六日、広島に、九日長崎に原爆が落とされ、終戦となった。

終戦後、すさまじい食糧難-食べるものが全くない事態を妻も私も体験している。
妻と私の出合いは、その後の東京であり二人とも二十歳を過ぎた青春時代であった。二人の娘にめぐまれたが生活は楽ではなかった。

戦後80年二度と戦争はゴメンだ!
今又、戦争が進行中だ。ウクライナ、中東、アジアでは・・・しかも核戦争になる可能性も?
一方で被爆者がノーベル平和賞を受賞したことを大事にし、改めて世界から戦争が無くなり豊かな地球が生まれることを希う。

被団協のノーベル平和賞受賞と54年前の思いで --- 佐藤光信 --- 2025年1月
今年は、戦後と原爆被爆から80年。被曝80年を前にして、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞した。10年くらい前から被団協はノーベル平和賞の候補としてノミネートされてはいたが、「今年もダメだったか」で終わっていた。
被曝80年を前にして受賞したことの意味は大きく、年々被爆者が亡くなり、語り部が減少する今、核兵器全廃に向けた運動が飛躍するきっかけになったらと思う。

日本の原水爆禁止運動の出発点となったのは、1954年のビキニ事件。
アメリカが太平洋のビキニ 環礁で水爆「ブラボー」の実験を行った。 「ブラボー」は広島・長崎に投下した原爆のおよそ1000倍と言われており、死の灰はマーシャル諸島や周辺海域で操業していた日本などのマグロ漁船に降り注いだ。
焼津港を母港とする第五福竜丸などの被害が知らされることで抗議の運動が全国に広がり、1955年に原水爆禁止日本協議会(原水協)の結成、1956年被団協結成へとつながった。

1958年から始まった原水爆禁止国民平和大行進。今では全国各地を網の目のように行う行進だが、私は1970年の大行進で東京~広島間を代表通し行進者をつとめた。70年の原水爆禁止世界大会は東京で開かれたため、広島から東京に向けて歩いた。
その時私は若干23歳、新幹線は運賃が高いため在来線に一人乗り、胸が張り裂けそうな心配をしながら長時間かけて広島の地を初めて踏んだのを覚えている。
原水協からは「途中から全学連の通し行進者が合流するから」と聴かされていたが、通し行進は最後まで私一人だった。
行進はその土地の事情で人数が多かったり少なかったりするけれど、県区市町村ごとに私以外の人はほとんど入れ替わる、一日の出発と到着時、私以外が交代するたびに引継ぎの集会が開かれ、その都度通し行進の私が挨拶をしなければならない、
集会の参加者が変わるのだから同じ挨拶をしても良いかとも思うが、何故かそれができない、引継ぎから引継ぎまでの間で起こった事や沿道の反応などをメモし、毎回変化のある挨拶に苦労した思い出が甦る。

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