BLOG-3 (2016~2017)

 

2016年 ブログ アーカイブ

2016.4 「防衛大学校の任官拒否」・・・ 堀井 仁子 (/自由通信第9号) ABCD

2016年3月、防衛大学校の卒業生は419名。そのうち任官拒否者数(民間の就職等)は47名。卒業後は幹部候補生学校へ進学するのだが、ここでも中途退学者が出ると100~150人の任官拒否者が見こまれる予想である。原因には、安保関連法等が大きく影響している。

過去の任官拒否者数は、2012年3月ー4名、東日本大震災の年である。
翌2013年3月ー94名、バブル景気と湾岸戦争がその原因だとのことである。
防衛大学校の学生は国家公務員の特別職員である。給料は一カ月約10万円位、学費、制服、食費、居住費すべて無料。常時上官の監視下に置かれ、部活動も強制参加でプライバシーは殆ど無い。

2013年より、卒業時の任官拒否及び任官して6250満の場合に任官を拒否した者は250万円程の返納義務が課せられる。尚、防医大生が任官拒否の場合は4,899万円とか・・・
ちなみに、世界価値観調査(2000年)によると「戦争があったら国の為に戦うか?」 18才以上の男性の答えに対しYESと答えたのは下記の通りである。
中国90% 韓国74% 日本15%
現在、高校生へDM(ダイレクトメール) が自衛隊より送られるようになって来た。

私は考える。戦争法は、どんな事があってもなくさなければならないと・・・ 軍靴の音は二度と日本に響かせてはならないと・・・

「基地のない日本へ」・・・海老原 栄一
6月の沖縄県議選、7月の参院選に向けて日本共産党の不破哲三前議長は316日の夜、那覇市内で講演しました。その中で私は非常に驚いた問題を幾つか感じましたので、 述べたいと思います。

不破さんは、「第二次世界大戦の他の敗戦国であるドイツ、イタリアで、その国の一部を他国の占領状態において、その地域全体が米国の軍事基地になったところは、沖縄以外にどこにもない」と指摘しています。その根源にサンフランシスコ条約があると述べています。

沖縄の基地には世界のどこにもないことが二つある。「米軍がこれだけ横暴勝手な振る舞いをしている基地は、世界の他の国には存在しない」海外への「殴り込み」をおもな任務とする米海兵隊が出撃基地として自由に使っている外国の基地は沖縄にしかない。これも 世界の常識からして異常です。

沖縄返還を合意した69年11月21日の首脳会議で、佐藤栄作首相とニクソン米大統領が、極東有事などの際、米国がいつでも沖縄に核兵器を持ち込める密約に署名もしているそうです。フイリピンには10年来の米軍基地がありましたが、アキノ政権が誕生し、「外国軍基地を原則禁止する」新憲法を87年に制定し、米軍は92年に撤退しました。

いま日本は、本土でも沖縄でも一つの基地を撤去するにも、アメリカの同意がないと出来ません。
しかし、日米安保条約にはいろいろな意見があることは知っていますが、10条には締約国の一方が条約を終了させる意志を通告すれば、1年後にはすべての米軍基地の撤退が可能となります。 自分たちがこのような切り札をもっていることを胸に刻んでほしいと語りました。

2016.7 「国民が悪いか?」・・・山田 勉
(犠牲になるのは常に弱きもの)

 

ヨーロッパの格言に「その国の国民は水準以上の政府を持つことはできない」というのがあります。
良くも悪くも政府は国民が選んでいるのですよと言っているのです。自・公政権の暴走も国民に責任があると言っているようでもある。
しかし、ちょっと待ってもらいたい。言いたいことがあります。
一つは、戦争法 (安保法制)です。
日本が攻撃されていないのに、米国と一緒に戦うことができるという内容です。

国民の過半数が憲法九条に違反するから反対だと声をあげています。新聞各社の世論調査でも判っきりとしているし、政権が知らぬ わけはない。 民主主義を口にするなら「国会の多数で決めているのだから文句を言うな」とは口が裂けても言ってはならないでしょう。違いますか。

二つは、その多数についてです。自民.等の多数は虚構のものでしょうということです。
先の総選挙での自民党の絶対得票率(全有権対比の得票率)は17%です。衆議院議席の中でせいぜい85議席位です。
比例選挙は 政党の力関係を比較的正しく示しますがそれは33%です。議席数に置きかえると、およそ156議席程度です。
民意を正しく反映しない悪い制度のおかげで得ているまさに虚構の多数です。このことを肝に銘じて政治をしてもらいたい。

私は「国民学校」三年生から旧制中学一年の夏まで戦争という暗黒の世界に投げ込まれ勉強もさせてもらえず、食べる物も無く、働き手を軍隊にとられた農家に派遣されて、牛馬のかわりをさせられた。
あの苦しみを忘れていない。親せきやまわりの知り合いも戦死している。
だから、国民が悪いなんて思われたら黙ってはいられない。悪いのは自公政治だ、国民は悪くない。

2016.10 「ナチスの手口と安倍内閣」・・・倉谷 順一 (自由通信第11号)

当時「世界で最も民主主義的」と言われたドイツのワイマール憲法は代議制民主主義・議院内閣制を定める一方で、国民の直接選挙で選ばれる大統領に大きな権限を与えていた。
大統領は政府を構成する首相と閣僚を任免し、国会を解散する権利、さらに緊急時の命令権を有した。 また48条では「公共の安寧と秩序」が脅かされた場合、大統領に「必要な措置を講ずる」ことを認めたが、その定義は曖昧で後にヒトラーはここをついた。
一方で首相・閣僚は国会の信任を必要とし、国会は大統領緊急令を無効にすることも国民投票をして大統領を罷免することもできた。
この国会と大統領の二元主義がワイマール憲法の特徴だった。
「ナチスの手口を学んだらどうか」と言った麻生太郎副総理・財務大臣は第3次安倍内閣でも、その職にとどまっている。
発言はすぐに撤回されたが、戦後最悪の安倍内閣が「学ぼう」としている「ナチスの手口」とは、世界恐慌が起こった1930年代政治が混乱する中で、新首相パーペンは政権基盤を広げるためナチ党に接近し、ヒトラーの要望に応じていく。ヒトラーは国会を解散させ選挙(1938 年11月)にうって出たがナチ党は低落し、逆に共産党が前進。これに危機感を持った財界はヒトラーを首相にするようヒンデンブルク・第2代大統領に請願した。伝統的保守派のヒンデンブルクとヒトラー(新右翼)を結びつけたのは、

①議会制民主主義を終わらせ
②共産党を粉砕し
③再軍備を実行し、強いドイツをつくることだった。
政権に入り込んだヒトラー新首相は独裁体制樹立に向け、

①大統領緊急令
②(ナチの)突撃隊・親衛隊
③大衆宣伝組織を活用した。
「安寧と秩序の回復のため」とした大統領令により集会、デモ、言論が統制され自由な選挙が不可能になった。
19国会議事堂炎上事件がデッチ上げられ共産党や左翼運動、労働運動が弾圧される。
1933年3月5日、露骨な選挙介入にもかかわらず反ナチ党4割以上の得票を得る。 しかしナチは手練手管を弄して「国民と国家の苦境を除去するための法律」(授権法=全 権委任法)を制定。これは「政府が制定する国の法律は憲法と背反してよい」とされた。

こうして新法が続々成立=「決められる政治」が実現した。ヒンデンブルクの死を前に「総統職」を設置しヒトラーは大統領と首相の権限を持つ絶対の指導者となった。
選挙からわずか1年半。社会的混乱に乗じて 政権に入り込み、ワイマール憲法の弱点をつき、短期間でドイツを恐ろしい国にしてしまった。

この日本版が自民党の改憲草案98条にある緊急事態条項だ。

「中学生に新兵訓練 ?」・・・高野 勇

7月19日、知り合いからメールが届いてビックリしました。
私の子供が卒業した武蔵村山市立第五中学校の「五中フェスティバル」で横田基地の米兵が「ミニブートキャンプ」を行なったという横田基地ホームページだったからです。
「ブートキャンプ」とは米軍の「新兵訓練」のことです。このことは、21日のしんぶん赤旗・東京新聞・毎日新聞で報道されました。

「五中フェスティバル」は今年で13回目、全校生徒238人が参加し、木工や茶道など26の講座が開かれ、その1つとして行なわれたのが「ミニブートキャンプ」(2時間)です。
「男女33人の生徒が参加し、米兵と基地従業員ら23人が指導。」敬礼・フェースペ イント・ほふく前進などの写真が写っていました。これは、6年前から行なわれ内容も全く同じとのことです。 ホームページでは、指導した米軍曹が「日本の生徒たちと空軍兵にとって人生の宝となる経験」だったと高く評価しています。

地元の「武蔵村山子どもの教育と文化を育てる会」は、8月、市教育委員会に質問書を提出しましたが、「戦争疑似体験」を「トレー ニング」と称して学校行事に取り入れておきながら「交流を目的にした体力トレーニングのようなもので問題ない」と回答したそうです。

とんでもありません、学校教育で米軍兵士を講師に新兵訓練は異常です。生徒が喜ぶからといって許されることではありません。
育てる会は、9月12日、市教育委員会と五中校長に「次年度以降ミニブートキャンプは実施しないよう」要請書を提出しました。 学校からは「次年度以降このような形ではやらない」むねの話が副校長よりあったそうです。

育てる会は「みな様の抗議の文書・電話が学校に届き、ことの重大さを認識したようです」と支援に感謝し、これからも頑張ると言っています。

 

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2017.1 「チェンジ国政!板橋の会 タウンミーティング」・・・松本 佳久 (自由通信12号)
昨年末開かれた「チェンジ国政!板橋の会」 主催のタウンミーテングについて報告します。 「チェンジ国政!板橋の会」は「許さない戦争法!オール板橋行動」の会合を重ねる中からでてきた「下村博文の当選を絶対に阻止したい」の声を、実現させるために「市民と野党の統一 候補の擁立」を目指して作られた集まりです。

この会合には毎回、東京第11区(板橋区)次期衆院選立候補予定者の民進党前田順一郎さんと、共産党小堤東さんが参加され、そのテーマー に関する考えや立候補にあたっての覚悟などを話されます。
衆議院選挙東京11区政策協定 (「チェンジ国政!板橋の会」事務局案)
Ⅰ 憲法を活かし、平和主義をつらぬく国をめざす
Ⅱ 国民の生活を安定、向上させる
Ⅲ アベノミクスで広がる格差を是正する
Ⅳ 若者が希望を持てる施策を講じる
Ⅴ 非核の国・世界の実現をめざす
Ⅵ 金に支配されないクリーンな政治を実現する
Ⅶ いのちを守る地方自治を確立する。

第1回 タウンミーテング 12月15日 蓮根地域センター/テーマ
右傾化する日本社会と家族のカタチ(家族・教育政策を問う) 講師 池田 剛さん(板橋子どもと教科書を考える会・高島平九条の会世話人) 渡辺雅之さん(大東文化大学准教授 ) 吉良智子さん(ジェンダー史研究者・ 前野町在住) *安倍政権が進める国の施策に従順に従う国民作り・学校作りに、強い危惧の声が発せられた。

第2回タウンミーテング12月24日 板橋地域センター/テーマ
いま若者に届く政治はどのようにして可能か~労働政策を問う 講師 鈴木 剛さん(東京管理職ユニオン執行 委員長) 益子亜明さん(SPAR=平和のために行動する立教大生の会) 菊池義弘さん(中小企業診断士)

*一昨年の衆議院議員選挙での20代有権者の投票率が32.58%という事実に、驚きの声が起こり、若者が置かれている現実は想像以上のものだと実感しました。

「誇りある主張」・・・星 正志

雑誌「通販生活」は、通販カタログ誌である。春・夏・冬号として、年に三回発行されているが、同誌ならばではの味わいのある記事が特徴となっている。
その夏号で、先の参院選挙を前にして、自公政権の暴走を憂いて、『自民党支持の皆さん、今回ばかりは野党に一票、考えて頂けませんか。』と、訴える参院選特集記事を掲載した。

同誌の購読者には、当然のごとく自民党の支持者もいるし、いろいろな政治信条を持っている読者もいた筈だ。
だから、そうした記事を掲載した同誌への批判が出てきたとしても何の不思議もない。
同紙によると、そうした批判や意見は、172人から寄せられたと言う。

そこで、次の冬号(発売中)に、それらの批判や意見の主たるものを掲載した。
その上で、それらのものにこたえる形で、同社の態度や考え方を明示し、回答としている。
その回答が実に小気味のよいもので、常日頃マスコミなどに抱いている欝憤を、一挙に晴れさせてくれるほどだ。

回答は、批判や意見を概ね三点に集約して、それぞれに同誌の考え方を示している。 その集約した三点目[通販生活は左翼雑誌になったのか]に関しては、次のような感動的な表現で回答としている。
(3)についてお答えいたします。 戦争、まっぴら御免。原発、まっぴら御免。 言論圧力、まっぴら御免。 沖縄差別、まっぴら御免。 通販生活の政治的主張は、ざっとこんなところですが、こんな「まっぴら」を左翼だとおっしゃるのなら、左翼で結構です。と、明快に 回答している。

そして、最後に、「良質の商品を買いたいだけなのに、政治信条の違いで買えなくなるのは残念」と今後の購読を中止された方には、 こころからおわびいたします。永年のお買い物、本当にありがとうございました。と結んでいる。

腰砕けの多いメディアの中で、これほど明快に自身の主張や態度を表明した企業(雑誌)があっただろうか。 本当に、この小気味よさには震えるような感動を覚えてしまう。日本も捨てじゃもんじゃない。まっとうに生きている個人や企業がまだまだ多いのだと励まされる気分でもある。 雑誌「通販生活」には、その誇りを高く掲げ続けていて欲しい。
私にできることは、一読者となって応援するぐらいだが、同誌には、今後も信念を貫かれるようにと願っている。頑張れ「通販生活」!

2017.4 「”共謀罪”の恐ろしさ」・・・ 山名 泉 (自由通信第13号)

(沖縄不屈館を訪ねて)

日本国憲法のもと、国民は犯罪を実行しないかぎり逮捕され身柄を拘束されることはない(憲法33条、34条など)。
しかし実行しそうだと警察官が判断した時は、職務質問を受けたり、所持品検査をされる等、警察官の職務によって行動を制約されることがある。

現状、警察(官)の恣意的な判断で国民の人権、言論・集会・結社の自由が侵されることが多い。
それでも“犯罪を実行しそう”と警察官が判断するための要件を満たすハードルは低くないはずだ。ゆえに、市民が犯罪者予備軍とあからさまに見なされることは多くはない。

自公政権が成立を目指す「共謀罪」では “考えて(思って)いる”だけで犯罪は成立するのだから、誰でも警察によって犯罪(共謀罪)予備軍にされてしまう恐れ十分だ。今でもかなり勝手な判断で警察は国民の権利の制約を行っているのだから、「共謀罪」が成立してしまうと、時の政府(や警察)にとって好ましくないと思われたら、誰でも(どのような団体でも)共謀罪予備軍として捜査の対象とされるであろうことは十分に考えられる。

「共謀罪」で逮捕されることも大問題だが、 逮捕されないまでも、疑われて、盗聴されたり尾行されたりスパイを送り込まれたりすることが頻繁に起きそうで恐ろしいことだ。
「共謀罪」絶対反対だ。

僕の戦争体験―1  田野中明夫-90歳(石川県出身)---2017年4月
*この体験記は、故板橋区議山岡冨美さん編集発行(2017年4月)の「平和へのバトン-私たちの戦争体験」に、会員の田野中さんが投稿したものです。2回に分けて転載します。

 

最悪だった―学校生活の思い出
僕は石川県加賀市大聖寺(付近には温泉が多く、海、山の景色もよい)で生まれ、真珠湾攻撃のとき国民学校2年生で、6年生のとき終戦となった。
学校は全校生2000人で、田舎としては比較的大きいものであった。とにかく小学校時代はすべて戦争中ということになる。
空襲にはあわなかつたが、戦争中の学校生活を含めた思い出は最悪だった。しかし今でも軍歌は忘れていない。上級生の弁当を持ち、隊列を作って登校した。胸には、住所・生年月日・血液型・氏名を記した布をつけ、学校には防空頭巾を各自で持って行った。

 

国民学校で何を教えられたか

学校で印象に残ろのは、朝の全校集会で、軍服姿の校長が白い手袋で教育勅語(注1)を木の箱から出し、おもむろに読みあげ、厳粛な雰囲気が醸し出されることだった。
歴史の教科書(注2)には、日本の国は神がつくったとして、雲の上の人間の形をした神が描かれていた。石器時代も縄文時代もなかった(教えられなかった)。天照大神(アマテラスオオミカミ)が元祖とされた。神は雲の上の存在だが、友達と「どうして雲の上から落ちないのか」と議論した。そして教師は、「日本は神の国で戦争に負けたことがない。だから、今度も勝つ」と強調した。
また、天皇は人間の形をした神であり。天皇の言葉は絶対だとも強調した。敵国のアメリカ人やイギリス人は、鬼か畜生でとにかく野蛮人だと教えられた。

僕は絵が得意だったから、教室に掲げる戦争の絵や飛行機の絵を描かせられた。開戦の初めのころは、僕も家にアジアの地図を貼り、日本軍の占領地に日の丸のマークをつけていたが、すぐに行き詰ってしまった。

当時、全校の各教室には、天皇か二重橋の写真が掲げられ、毎朝全員で最敬礼させられた。ある時、最敬礼の途中でオナラをし、一日中教室に立たされた。ちょっとした事件の罰として、教室の全員が、雪の運動場を裸足で走らされたり、廊下に並ばされて強烈なビンタをくらわされたこともあった。給食はだんだんお粗末になり、サツマイモの蔓(つる)や真っ黒な海草パンになった。

 

(注1)-「国民学校」 国民学校とはどんな学校だったのだろうか。

 

それは「第二次大戦中の初等普通教育機関。1941(昭和16) 国民学校令を公布、従来の小学校を国民学校と改称。初等科6年、高等科2年の8か年を義務教育年限と定めた。戦時教育のための改組で、『皇国民 』の練成を目的とし、教科編成も改定。戦後47、4月、6 3.制により6年制の小学校に復帰」というものだった(K角川日本史辞典第二版』。

国民学校、教育勅語の具体的実態は、本書の各執籠者の記述に、当事者の子どもたち、その家族の戦争への思い、苦労、悩み、喜びとともに描かれている。

注2)-「教育勅語」 一言でいえば、「戦前の教育の根本方針を示した明治天皇の勅語」。

1890(明治23)10月30日発布。第1次山県内閣のもとで、井上毅・元田永学らが起草、第1回帝国議会の開会直前に発布。家族国家観に立ち、忠孝を核とした儒教的徳目を基礎におき、忠君愛国をもって究極の国民道徳とした。全国学校への配布、礼拝・奉読の強制などにより、国民に浸透させ、天皇制の精神的・道徳的支柱とされた。1948(昭和23)国会で失効決議」。

教育勅語

注3)-「教科書」 第二次大戦終結までの教科書をめぐる動きを概観してみよう。

1872(明治5) 学制が学科目を規定したのに続いて、小学教則が科且をさらに細分するとともに、教育内容を教科書名をあげることで示した。
福沢諭吉の『学問ノススメ』『西洋事情』をはじめ欧米近代文化を紹介した一般啓蒙書・翻訳書などが教科書とされていたが、この文明開化によって次第に転換した。,80には教科書として不適当な書物のリストが発表され、5小学校教則要綱で教育内容が明文化された。
教科書もこれによって編纂されるようになり、,86には文部省の検定制度が実施されたが、日清戦争後教科書国定化を主張する勢力が強まり、1902の教科書疑獄事件をきっかけとして、翌年小学校教科書を国定とすることが定められ、以後修身・歴史教科書を中心とした忠孝の教育が強調された」。

僕の戦争体験—2   田野中 明夫-90歳(石川県出身)---2017年4月
この体験記は、故板橋区議山岡冨美さん編集発行の「平和へのバトン-私たちの戦争体験」に、当会会員の田野中さんが投稿したものを2回に分けて掲載したものです。
田野中明夫さんは、この夏2024年8月に90歳で急逝されました。生真面目でいつも元気に活動していた得難い仲間でした。ご冥福をお祈りいたします。

 

深刻だった食糧難 - 一般庶民の生活は ?

 

弁当の盗難も頻繁に起きた。授業をせずにドングリ拾いやイナゴ捕りなどをやらされた。
この時代、食糧難は深刻で、母親や弟たちと離れた地域の農家にサツマイモの買い出しによく出かけたが、満足に売ってくれなかった。苦しい思い出である。
甘いものはまずなかった。炊飯も、あの時代、薪の火で母が苦労してやつていた。
洗濯は付近の川で、やはり母が苦労してやっていた。
近所のお兄さんが予科練に入り、夏休みなどに帰省したときは、七っボタンに短剣をつけカッコよかったが、近所のお父さんがカッコよく出征しても帰ることはなかった。
今でも出征時の元気な姿が目に浮かぶ。親戚の叔父さんも戦死した。あの時代、不思議に衣類に多量のシラミが発生した。

終戦にはなったが -「いつか仇をとると考えろ」

終戦となり、日本人は皆殺しになるといわれ一家でどこに隠れようかと深刻に相談した。
終戦数日後、授業中に小学校の上をアメリカのグラマン機が起低空で旋回した。授業中だったが、生徒が「フアー」といって窓ぎわに集まった。
そのなかで僕は「カッコイイ、日本が負けるのは当たり前だ」と叫んだ。授業中の校長は黙ってその場を去った。
翌日、全校生徒の前で校長は、「昨日は実に悲しい出来事があった」と言って状況を話し、「このような生徒がいるから戦争に負けたのだ。負けてくやしいとは思わないのか。いつか仇をとると考えろ」と語った。

「沖縄から学ぶ」・・・高野 勇

沖縄は2回目です。初めての沖縄訪問は2015年の10月13日でした。沖縄はどんなところか、何がどうなっているのか、知りたかった。
あの日のことは、鮮明に覚えている。翁長雄志知事が「前知事の辺野古埋め立て承認」取り消しを発表した日だった。
翌日に訪ねた辺野古テント村は明るく喜び に沸いていた。
あれから1年4カ月。訪れた高江、辺野古の様子がガラリと変わっていた。 変わっていなかったのは、看板に書かれた、「勝つ方法はあきらめないこと」の言葉通り体を張って頑張る沖縄の人たちがいたことだ。
T V で放映された無言、無抵抗、座り込み の人たちがここにいた。 高江では、 オスプレイパッド工事入り口で、ヘルメット、 サングラス、マスクを付けた若い警備員が、 私たちが近づいても、身動き一つしないで立っていた。その姿が異様でした。

沖縄は知ってのように日本国土の0.6%の土地に日本の74%の米軍基地が集中している。
”この米軍基 地はあの時、住民を強制収容所に押し込んで、家を取り壊し焼き払い 、銃剣とブルドーザーで奪った土地を基地にした。”
ただ同然の土地、今でも返す気はありません。「普天間を返してやるから辺野古を差し出せ」と言う。みんな怒っていた。アメリカにそんな権利はありません。

戦後の凶悪事件や厳しい弾圧の中、瀬長亀次郎氏と沖縄の人たちは、ひるむことなくアメリカに抗議した。
そして沖縄返還、今日に至るまで非暴力の闘いで、日米政府に声をあげ追いつめてきた。

その沖縄に学ぶことが沢山ある。オール沖縄の闘いはその最たるもので、沖縄から自民党の国会議員を排除した。
沖縄に学び、明日に繋げたい。

2017.7 「”月光の夏”に思う」・・・・ 石倉 領 (自由通信第14号)

「自分たちは三田川から来ました。目達原基地の特攻隊のものです。」
「明日発ちます。時間がありません。お願いであります。ピアノを弾かせてください。こいつは上野の音楽学校のピアノ科の学生だったんです。」
飛行服を着た2人の隊員。長身の隊員はうなずき目礼した。
「死ぬ前に思いっきり、ピアノを弾かせてください。」公子は言いようのない衝撃を受けて胸がつまった。・・・彼らは特 攻出撃をひかえて、グランドピアノを探しまわったという。

ピアニストになることを夢見て学びつづけて来た青年にとって、リサイタルの一度もひらかず、死ななければならないとは・・・・ 今生の訣別に思いっきりピアノを弾きたいという青年の思いが痛いほどわかる。
・・・ 隊員は楽譜を開いた。ピアノにむかい姿勢をただすと鍵盤に両手の指をそろえる。呼吸をととのえ、宙に視線をとめた。瞳が光をおびた。沈んだ音色につつまれた幻想的なメロディーがゆるやかに流れでる。ベートーベン・ピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」第一 楽章。(小説「月光の夏」より)

映画「月光の夏」のはじめの部分である。
ときは太平洋戦争末期1945年5月。世界戦史上にも類例のない凄絶・苛烈な肉弾作戦で犠牲となった6千余柱の魂は日本の軍隊の類例のない非人間性と戦争の悲惨さを教えてくれる。

再び日本を戦争する国にしようという動きが大きくなっている。今、教育勅語の教材化、ヒトラーの手法か?オリンピックに照準を合わせた憲法(中でも九条)改悪のたくらみ。 まして共謀罪の成立を強引にすすめる動きに危機感を持つ。
「月光の夏」に接してその感を深くする。たたかわねばならない。

「メディアと政府(権力者) 」・・・ 徳永 國夫

政府とは権力者のことですよ。メディアは国民向けて政府の発表ですと言っていますが、それは権力者の国民に向けての命令なのです。メディアは政府の一方的な発表を伝えるだけでなく、その裏に隠されたものを国民のためになるのか国民目線から検討し、伝える義務があるはずですよね。なぜなら国民が主権 者だから。

メディアの中で最も国民に背を向けているのがNHKです。無理やり受信料を徴収しているにも関わらず権力者の発表を一方的に放映するだけで発表の内容をほとんど検討しません。
広告収入で成り立っている民放の中でも、国民の目線で報道している局もあるのに。新聞社の中でも最も国民に背を向けているのが読売・産経新聞。
権力者ご用達の新聞社になり下がっている。報道は全ての権力に疑問を呈しなければ。

今の日本の政治は一人の権力者とそれを補佐する一部の者たちが、権力を守るためだけで行っている政治である。
その位のことは素人でもわかるよ。我々をたかが国民と侮っている。そういう政治家を我々は政治屋と蔑んでいる。

共謀罪では人の集会及び国民一人ひとりを監視し権力者に抵抗することを防ごうとする。民主主義国家ではなくなってしまう。
戦後ずっと育んできた民主主義を守ろう 憲法九条の改正は、彼ら自身戦場に行くことがないから日本も戦争できる国にして、アメリカの武器産業に貢献し、これまた自分の身を守るためだけの改正です。アメリカをバックに権力の安泰を必死に守ろうとしている哀れな権力集団です。

自民党の議員諸君、あなたを選んでくれた国民の考えを実行していますか。黙っているだけではただの人ですよ。あなたも自分を守るためだけの人ですか。平和を旗印にしている公明党議員諸君、日本いや世界の平和を象徴する日本国憲法九条をなぜ壊そうとするの。公明党も与党にしがみつくだけで国民無視。平和の旗降ろさないと詐欺ですよ。

戦争は絶対に駄目。自分も相手を傷つくだけで何も得られない。歴史をちゃんと勉強してよ。日本には憲法九条があるのだから戦争法や共謀罪はいらない。202年に平和の祭典 オリンピックを開催する国なのだから堂々と憲法九条を掲げよう。 国民の願いは“戦争のない平和”。

2017.10 「米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー」・・・ 山名 泉 (自由通信第15号)

高島平九条の会の15年10月、17年2月の沖縄行きでは2回とも「不屈館」を訪ねました。「不屈館」は「瀬長亀次郎記念館」です。
その瀬長亀次郎の生涯を描いたドキュメンタリー映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男その名はカメジロー』を見てきました。

この映画は、沖縄の戦後アメリカ軍政の下 の苦難のなか、瀬長さんがどのように民衆と共にどのように戦ったかが描かれています。
瀬長さんは無理やり罪をきせられて2年ほど投獄されたのち直ぐに那覇市長選挙に立候補、当選すると米軍は、数々の妨害をし、そのため市財政がひっ迫した際には市民たちが率先して税を納め、瀬長市政に協力したという。

今、翁長県政を支える県民の思いの源流だと思いました。ほかにも数々の沖縄県民と瀬長さんの闘いが収められています。瀬長さんたちの行動は「オール沖縄」の源流です。このドキュメンタリーはTBSの佐古忠彦キャスターが監督しました。

数年前、沖縄朝日放送の三上智惠さんが「標的の村」という優れた(明らかに民衆の側にたった)ドキュ メンタリーを作りました。
佐古さんにも今後 “がんばって!”と声援を送りたくなりま した。またエンドタイトルの中に「上地完道」さんのお名前を見つけたのもうれしかったです。

「米軍(アメリカ)が最も恐れた男その名はカメジロー」ぜひ見て下さい。 渋谷のユーロスペースで10月13日までの上映予定ですが、延長上映の可能性もあります。

「3千万署名で改憲発議させない」・・・ 伊庭 崇

9月8日、中野ゼロホールへ行った。安倍9条改憲 NO!”全国市民アクション9・8キックオフ集会”がある。
今までの総がかり行動より一歩進んだものだ。それに9条の会が新たに参加しているという。

病弱者の私はここ3~4年、金・土曜日の 集会や行動には参加できないでいた。
その私が、がんばってホールへの道を歩いている。一市民としての私はドキドキものだった。まわりを見る余裕もなくホールに入って席についた。やっとまわりを見ると何と皆同じなのである。一人ひとりが私語することもなく静かに開会を待っている。

司会が出てきて、挨拶が始まり共感があり集会らしくなった。
ここまで来たら後は大丈夫。発起人・呼びかけ人の挨拶もそれぞれに7人が各4分間の持ち時間でよかったし安倍は追いつめられている。
あと一歩、もう一押しという声も不自然ではなかった。
コメディアンが出てきて憲法君となり、前文を語ったミニライブもよかった。

最後に行動提起があり、一大署名運動として来年6月の通常国会までに3000万の目標を上げあげ改憲発議をさせないとした。まず1500人の市民たちには伝わったと思う。

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