BLOG-4 (2018~2019)

 

2018年 ブログ アーカイブ

2018.1 「安倍さん 世に恥をのこすな」・・・山田 勉 (自由通信第16号)
私は前号の自由通信で、9月28日に召集された臨時国会での衆議院冒頭解散は憲法第53条に違反すると書きました。今でもその思いは変わりません。
ところがもう一つ重大なことが国会解散前にありました。
それは森友問題に対して、会計検査院から報告書が政府に提出されていたのです。

その報告書は国有地売却にあたり約8億円を値引きする根拠となったゴミ問題は勿論のこと「資料が保存されておらず充分な検査は行えなかった。よって政府の適切であるとの主張は信用できない」と断じているのである。
会計検査院は国の収入支出等の正常な使途に 目を光らせる専門家で組織されている機関であり、この報告書の意味するところは重大です。
ここでもう少し詳しく会計検査院について触れたいと思います。

この機関は公認会計士、学識経験者等で組織されています。しかも政府のすべての機関から独立しているのです。
したがって、検査院の報告書には無条件で従うのが当然で、政府が本気でどこに問題があったか検証する必要があるのです。

安倍さんの態度を見ていると、やってはいけない悪政のお手本のようです。
議会制民主主義を否定する暴走政治はいい加減にやめてほしい。多くの人々が、「森友学園問題のカギは安倍首相の妻」と言っていますよ。

終わりに聞きたい、安倍さんあなたは後世に何を残したいと思っているのかですが、「恥」だけは残さない方が良いと思います。

「今年の課題」・・・田野中 明夫
(澤地さん 落合さん ヒロさんも参加)

 

今年は九条の年とも思われそうだ。まず政府自民党は、九条に「自衛隊」を書き込もうとしている。単に付け加えるだけだと言っているが、根本的に内容が変わることを説明していく必要がある。

この改正案を、今年中に政府は国会に提出しようとしている。

また北朝鮮をめぐる状況も深刻化している。武力には武力で対抗すべき、との意見もあるが、自分たちを含めて核戦争にまきこまれる危険があることを、自覚しなければならない。
それは今までの戦争とは根本的に異なる被害をもたらすことも、理解しなければならない。どんな事があっても、これは阻止しなければならない。 次に、昨年の選挙によって国会での保守勢力が多数を占めた。どのような状況でも九条の会として頑張らなくてはならないが、九条前進させる為にも革新勢力を伸ばさなくてはいけないと思う

「”秩父事件”を歩く」・・・海老原 栄一

(困民党集結の地:吉田の小椋神社)

昨年の11月17日、11名で秩父事件のあった秩父を訪ねました。
秩父事件とは、1884年、明治17年1 1月、悪徳の金貸しや、政府の失政を批判して、貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起です。

秩父困民党軍は、西南戦争で西郷軍が押したてた「新政厚徳」の旗をかかげて行進した。秩父郡一帯は、養蚕製糸が盛んで、幕末開港以後生糸価格の好況により山村には生糸景気がおとずれていたが、明治15年頃から深刻な不況に直面し、多くの農家が高利の借金の返済ができなくなり破産に苦しんだ。
高利貸し反対運動をしていた、吉田町の面々は17年以降自由党に加わって、解決の道をさぐりました。
蜂起参加者は、秩父の村々から、上州・信 州までに拡がりました。最盛時で8000人とも1万人ともいわれましたが、有罪判決を受けたのは、3800余人(最高幹部は死刑ない無期懲役)
この武装蜂起で発揮された秩父農民の志は、今なお多くの感銘をあたえています。

これとは反対に明治政府がすすめた、群馬県の富岡製糸場のレンガ造の建物はどうでしょうか。
まず初めは、道の駅「龍勢会館」にある井上伝蔵邸を見学、井上氏は幹部であり会計長でもあった。 午後から吉田石間交流会館に行く。ここは元小学校で根岸君夫画伯の秩父事件の連作が展示されている。等身大の迫力ある絵に圧倒されました。次の椋神社は、明治17年の困民党一斉蜂起の地。その蜂起の翌日に蜂起軍は小鹿坂峰近くの札所23番音楽寺に着く。
私たちは、15時半にミューズパークを見学して宿へ。翌18日は「酒造りの森・秩父錦酒蔵資料館」に寄り、酒好きの人は何本も買っていた。 秩父神社のかたわらにある「秩父まつり会館」は、豪華な山車を二階から見られるような会館がつくられていた。農民のまつりに対する気持ちは大きいものがあると思う。最後に札所8番、西善寺の境内にあっ た、樹齢600年・幹回り6メートル 50という楓の前で、若い女性にたのんで写真のシャッターを。

1984年、秩父事件の100周年を迎えるや、全国でさかんに記念行事や顕彰運動が行われ、この事件の持つ大きな歴史的意義が再評価された。NH Kは1980年の大河ドラマ「獅子の時代」で秩父事件を取り上げた。

2004年、事件120年を記念し 神山征二郎監督が、映画「草の乱」を製作し、全国上映した。 明治以降の政治の総括が必要になると思う。

2018.4 「話し合いで非核化を願う」・・・山名 泉 (自由通信第17号) 

トランプ米大統領と金正恩朝鮮労働党委員長が直接会談を行うことになったという。
二人とも好きになれないのだが、朝鮮半島の平和、戦争回避に向けて大いなる一歩だと思う。 世界のほとんどの国が今回の米朝会談を歓迎している。

安倍政権の意向をくんで「圧力をかけてきたからこのようになった」などという考えも出てきたが、このような状況をつくったのは、 冬季オリンピックにおける北朝鮮への対応など、韓国の文大統領、文政権の判断が極めて 良かったからだと思う。金委員長からは「アメリカが北の国家の安全を約束するなら核も放棄することも考える」というような趣旨の 発言があったという。
話し合いによる朝鮮半島の非核化が前進することを強く願う。

3・30「九条の会アピールを受け止め みんなで安倍内閣退陣の声あげ続けよう!」・・・ 菅原 優
(高島平九条の会の新年例会写真)

 

---以下3・30九条の会アピールの要約---

安倍首相は自民党大会のあいさつで、あらためて「(9条に)自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打とうではありませんか」と9条改憲への強い決意を表明しました。
これは、 民主主義の根本に対する許しがたい攻撃であり、日本国憲法はいま、戦後もっとも重大な 岐路に直面させられています。

自民党がこれまでの論議を通じてまとめた 9条改憲案は戦争放棄を定めた1項と戦力不保持を決めた2項を維持しながら、「9条の2」を新設し「前条の規定は…自衛のための措置を妨げず、そのための実力組織として…自衛隊を保持する」と明記することで現行の9条1項2項を死文化してしまおうとするものです。
それどころか、改憲案は、わざわざ「自衛のための」措置という文言を挿入することで、戦争法ですら認めなかった集団的自衛権の全面的な行使にまで道を拓こうとしています。

また、自民党の「緊急事態条項」に関する改憲案の危険性も見逃せません。 安倍政権は森友文書の改ざん問題をはじめとした数々の悪政により追い詰められ、改憲強行のスケジュールも大幅に後退を余儀なくされています。
しかし、安倍政権が続く限り改憲の動きは止みません。この歴史逆行の企てを許さない保障は、いまおこなわれている森友問題糾弾の世論をさらに高めることとあわせ、九条の会も参加する「安倍9条改憲NO!全国市民アクション」が取り組む3000万署名を必ず達成し、9条改憲の国会発議を許さない大きな世論を作り上げることです。
そして安倍首相を退陣に追い込むことです。

すべての皆さんがこの歴史的な運動に参加されることを心からよびかけます。
九条の会 2018年3月30日
秘密保護法をつくり戦争法、共謀罪法を強行し、お友達優先で行政を曲げ、国政と憲法を私物化し、公文書改ざんや隠蔽の「アベ内閣は退陣!」の声をあげ続けましょう。

2018.7 「もうすぐ8月6日9日がやってくる」・・・池田 剛

日本は3度にわたって被爆を体験している。
アメリカの原爆投下による1945年8月6日のヒロシマ、9日のナガサキ。
続いて1946年から62年までアメリカがビキニ環礁 などで行った核実験(67回にのぼる)によって被爆したマグロ漁船とその乗組員(静岡の第五福竜丸が被爆した1954年のビキニ事 件)が有名である。

本18号では、わたしのふるさと長崎の原爆被災者協議会会長を務められた故谷口稜嘩(すみてる)さんを紹介したい。
みなさんのなかには、原爆写真集などで被爆によって背中が真っ赤に焼けただれた青年の写真を見られた方もいらっしゃるでしょう。その人が谷口さんです。
谷口さんは、16歳の時に被爆した。赤い背中は、1946年1月に米兵によって撮影された。半年たっても背中は真っ赤に焼けただれたまま昏睡状態が続き、1年9カ月間うつぶせで寝たきりで、胸の肉が腐れ落ち、激しい痛みに「殺してくれ」と何度も叫んだとのこと。
赤い背中の画像が発見されたのは、谷口さんが41歳の時。画像を掲げて講演する機会が増えた。
2010年、NPT再検討会議を目前に国連本部で「赤い背中」の画像を掲げてスピーチしたのが80歳。このことが、核兵器禁止条約への足掛かりとなった。

2017年7月、日本の被爆者の粘り強い取り組みのなかで、国連で核兵器禁止条約が締結された。日本政府は締結に反対した。このことを見届けて谷口さんは昨年8月30日、88歳で亡くなりました。
この間、「安倍9条改憲NO!憲法を生かす全国統一署名」に追われ、「ヒロシマ・ナ ガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」(国連へ提出)が進んでいません。 日本政府に核兵器禁止条約締結を迫っていくためにもこの署名運動を広げていきましょう。

「ある中学生の戦争体験・・・1」  兵頭 稔 (2018・8---執筆時86歳)) 
この「戦争体験記」は、高島平九条の会の創立メンバー兵頭稔さんの戦争体験記録です。
兵頭さんは、自分が元気のうちに、自分の戦争体験を伝えておきたいとして、数年前にこの体験記を高島九条の会の旧ホームページに寄稿してくれました。
しかしながらこの旧ホームページを、多くの会員は十分に利用しておりませんでした。このままでは、この貴重な体験記が埋没してしまいます。本体験記は、ご本人の了承を得て、連載形式で会報「高島平自由通信」第27号から、原文のまま3回にわたって掲載したものです。
当ホームページでもこの欄で3回にわたって掲載します。

兵頭さんは、2022年2月に91歳で亡くなられました。亡くなられる寸前まで、体調が良いときには、時々例会に顔を出していました。耳が遠くなったのでと断りながらも、平和への思いを熱く語っておられた姿が偲ばれます。お疲れさまでした。ご冥福をお祈りいたします。

第1回 始めに

世界を揺るがせた先の戦争ですが、個人の体験はそれぞれ小さな体験にすぎません。当時13~14歳だった一少年の僅かな体験、戦争の断片についてお話させていただきます。
私はいわゆる「東京大空襲」にも遭った一人ですが、当時一緒に遭遇した私の家族6人は全員無事で生き残った。「ああ良かった、殺されたり傷ついたりの人が大勢いるのに、うちは大したことではなかった」との「気後れ」みたいなモノもあり、また、大勢の人がみんな同じ戦後の食うや食わずの生活で、お互いに戦争の話などする雰囲気も余裕もなかったように思います。

いま、また戦争が起こされそうだとの情報の中で。絶対にそうなってはならないと、つたない体験でも話す必要を改めて感じています。
私は昭和6年=西暦1931年3月の生れです。その年の9月に当時の満州で「柳条湖事件」が起こされ、中国への侵略戦争が始まったので、「193(イクサ)」最後の「1」をハジマルと読んで、「戦始まる年」とも言われていますが、1945年の敗戦まで、私の乳幼児は戦争一色の世の中でした。
私は7人兄弟の末っ子。今も江東区にある両国高校、当時の都立三中に通っていた時の話です。
無事に学校に行けたのは2年の1学期まで。2学期になると「勤労動員」なる「命令」が出て、学業はほぼ停止、亀戸にあった日立製作所の工場に駆り出され、機械修理の手伝いという事で、グリスなんかで汚れる作業の毎日で、学校に行ったのは時折でした。

体当たりに歓呼。特攻隊は「死の宣告」

1944年(昭和19年)10月ころのこと。その日は珍しく学校に居ました。空襲のサイレンが鳴り、まだ空襲の恐ろしさを知らなかったので、興味本位で、友達と屋上に上がって「敵機」の動き、「戦況」を見ていました。
「味方」は高射砲で迎撃はしているものの、敵機の高度が高く全然届かない。ヤキモキしているとき、日の丸のついた一機の「友軍機」が「敵機B29」の心臓部めがけてぶつかっていったのです。うまく命中し、B29は3つ位に分解して友軍機もろとも東京湾に落ち、水柱を高く上げました。居合わせた者は「万歳、やったあ」と思わず喜びの声を上げましたが、このとき友軍機の兵隊が、自ら決死隊となって、命を落としたことに思いを寄せることはありませんでした。
「滅私奉公、命は鴻毛と心得よ」と人の命を軽んじる気持ちが少年の心を歪めていたのでしょうか。
ところが、それから間もなくのこと。国の「大本営」の方針で「特別攻撃隊」略して「特攻隊」という戦術が採用されたのです。先ほどの友軍機の攻撃はそれまで「決死隊」などと言われたもので、いわば自分の意思もあってのことと思いたいのですが、「特攻隊」は100%死ぬことを文字通り命令された戦術です。当時「日本の男の命は20歳まで」と言われていたものですが、私より2歳くらい上の人は続々と「特攻隊」に「志願」していきました。
「志願」の形はとってはいるが、当時は何もかも事実上の強制で、そうした世の中、そうした雰囲気で、逃れる術は言わば皆無でした。「特攻隊」に積む燃料は片道だけ。帰りの分はいらないから積まないわけです。現実に、特攻隊によって数千人の若者が命を落としました。
自爆攻撃というと今の中東での自爆テロを思浮かべますが、当時の私たちにとってそれが自分の運命。他人事ではありません。100%死ぬ=2~3年後には、否応なしにそうした運命が待っている。こうして、13歳の少年は人生の確実な終わりを予告され、「絶望感」に陥りました。
しかし、世の中はその通りには進みませんでした。間もなく空襲は激しくなって遂には全土に及び、沖縄の地上戦や原爆投下を経て、敗戦という結果で戦争が終結したからです。

「ある中学生の戦争体験・・・2」  兵頭 稔 (2018・8---執筆時86歳) 

第2回 目の前で爆弾が炸裂、その直後東京での空襲が激しくなったのは1944年暮れから45年の終戦に至るまで(昭和19年~20年)。
この年の冬は寒く、大晦日の夜も空襲のサイレンに起こされ、防火用水に張った氷をたたき割ってか防空壕に飛び込んだ記憶があります。
私が初めて爆弾に出逢ったのは、1月27日のことでした。この日も、亀戸の工場で作業をしていました。

空襲のサイレンで仕事を中断、工場は敵に狙われて危ないからというのか、家に帰れとのお達し。帰り道も危ないのにと思いつつ、同僚3人で亀戸から電車に乗り秋葉原乗り換えで上野まで来ました。そこから常磐線で始発に乗り、南千住へ帰る手はずでした。

常磐線のホームは駅の一番東側の高いところで、下谷・浅草方面が見える眺めの良いところでした。
そして3人で電車の中で発車を待っていた時のことです。
目の前の下谷方面で突然爆弾が2発ほど炸裂。初めての光景に、珍しいものに出逢った興味もあり、そのまま脳裏に残っていますが、それは一瞬のこと。次の瞬間、「ガンガンガンガンガンガン」と激しい衝撃音の連続。電車がプラットホームにぶつかったのです。
みんな転倒してしまい、床に這いつくばりました。 それから、みんなで転げるように階段を降りて一目散に上野公園の西郷隆盛さんの銅像の下にあった横穴の防空壕まで走りました。
私は鈍間(のろま)で最後の独り。今も上野駅に大きな広場がありますが、誰も居ない空間を突っ切る時の恐ろしさ。
「さっきの爆弾は駅を狙って外れたので、次はここに落ちてくるに相違ない」と決め込んで、息を切らせました。

心臓がいくつあっても足りないという気持ちでした。
山の裾を掘ったその横穴の防空壕は人でいっぱいで、そこに爆弾が落ちたら皆殺しだと気にしつつ、やはり人の居ないところより人のそばが良いなと思いました。
同行の3人は、かすり傷一つ無く全員無事。

電車は激しく揺れたものの、爆風を受けた側の窓ガラスは全部閉まっていて割れたりせず、電車はプラットホームのお陰で引っ繰り返ったりもせずに、幸いなことでした。
その日は電車も動かなかったようで、爆弾の落ちたところを道路越しに眺めながら徒歩で帰宅しました。

この空襲で、私の親しい友人が若い命を落としました。恩田洋君と言い、小学校の時は毎朝「兵頭君、お早う」と誘ってくれて一緒に学校へ通った仲良しでした。
彼は同じ江東区方面にあった商業学校に通っており、その日は、都電を利用して浅草橋で乗り換え、雷門付近まで来て、爆撃に遭遇したのです。
私は上野、彼は浅草で、生死が分かれました。

それから3月10日の「大空襲」までに、私の住んでいた南千住でも爆弾や焼夷弾による攻撃が3回ほどありました。
私の家は「コツ通り」という昔の小塚っ原死刑場に因んだ名のあまり広くない通りに面していました。
家の真向かいに向笠さんというお茶屋さんがあり、そこのおやじさんとは道路を挟んで良く言葉を交わしたものでしたが、2月25日だったか、こういう事がありました。

その日も空襲のサイレンが鳴り、おじさんは「また来ましたな。じゃあまた…」と言って別れました。私は自分の家の防空壕に入って身を潜めておりました。「ヒューウウ…ウウ、ズシーン」爆弾投下のすさまじい音。最初の「ヒューウウ……ウウ」は次第に大きくなる落下音。自分の真上に落ちてくるようで恐ろしく、「ズシーン」と鳴ると、ああ近くに落ちたが、自分は直撃されなかったと、その度に安堵する。それが何回か続きました。

敵機が去って、壕から出た時の事。「家のお父さんが居ない」とおばさんの悲痛な声。さっきの向笠のおじさんはそれっきり、どこからも出て来ず何も残されていませんでした。
ただ、私の家の近くに1~2メートルの爆弾の穴があり、そこでやられたのかということになりましたが、どうしてそこに来たのか、皆分からないままです。

そして、いよいよ3月9日の夜となりました。この日も私は皮の編み上げ靴を履いて布団の外に出したまま寝ていました。そしてサイレンに飛び起きて防空壕に入っていました。外に出て様子を見たら、南東方面はすでに炎が空に映えて真っ赤。これはいつもと違うぞと思ったら、時を移さずバラバラと一面に焼夷弾が落ち、防空壕の入り口も一発落ちて燃え出しました。
その一発は何かで消してから、母親はリックを背負い、私は「これを持っていけ」と言われて敷布団を一枚担ぎ、一面の火の海の中、どっちに行くべきか迷っていたら、お袋に「こっちだ」と言われて逃げたのは風下の方でした。
近くの自転車屋さんのおじさんとの3人が一緒でした。一緒に住んでいた家族はバラバラ。姉2人などは風上へ逃げたら次から次と焼夷弾が落ち、恐ろしかったそうです。
それから先は、後で考えると幸運続きという外ありません。

ある中学生の戦争体験・・・3」  兵頭 稔 (2018・8---執筆時86歳) 

一緒のおじさんは焼夷弾が肩にあたったようで「痛え、痛え」と言っていましたが、私たちを先導。私は道路のアスファルトが熱で溶けて足が取られましたが、運動靴などでな く、革製のいわゆる「軍靴」で、大丈夫。家の近くに常磐電車の走る土手があり、「コツ通り」をまたいでガードがありました。
その南側にバスの発着場の小さな空き地がありました。おまけに屋根のない防空壕があって雨水が貯まっていました。3人は担いでいった敷布団を水に浸して被り、一緒に固まって いました。土手が風除けになって、炎も熱さも防いでくれました。空には焼けトタンがうねりを上げて飛んでいました。
暫くして私はおじさんに「家はどうなったかな」と何もわからずに尋ねたら「今頃まる焼けで何も無いよ」と言われました。
明るくなって3月の空気が冷えて寒さも感じながら家に戻ったら、土手の向こうは見渡す限りの焼け野原でした。それこそ何もなくなって、瓦礫の山でした。

映画の焼け野原風景で、材木の柱が燃え残っているのがありますが、実際の焼け跡には燃えカスも皆無の状態。柱の立っていた穴だけが残っていました。家はガラス屋を営んでい たので、ガラスだけは燃えずに残っていました。

「ガラスのうさぎ」という戦争体験談がありますが、あのガラスではなく、窓などに使う大きな板ガラスが何枚も、ぐじゃぐじゃに歪んで残っていました。6角形の焼夷 弾の残骸を数えたら、わずかな敷地の中だけで30発以上ありました。文字通り「絨毯(じゅうたん)爆撃」、皆殺しの作戦でした。

焼け跡に全員が集まって、無事を喜び合いました。着の身着のままで全てを失い、まず泊まれる所の確保。大方は向島の親戚に頼みましたが、私だけは入りきれなかったので巣 鴨にあった兄の独身寮に行って、そこで何日かを過ごしました。
翌々日のこと。学校や工場がどうなったか気になって、江東方面に歩いていきました。本所の大通りには「○○家全滅」という木片が、幾つもいくつも並んでいました。そして 江東橋という所まで来て、息を呑みました。
川は防空頭巾を被ってた遺体で埋め尽くされていました。川の両側に何人かの男が長い竿の先の鉤(かぎ)で遺体の頭巾をひっかけて、水を滴り落としながら引き上げては、焼けトタンに乗せて、道路にずうっと並べて行きました。
これは地獄だ、と初めての光景にたじろぎながら、手を合わせました。
次いで工場のあった亀戸の方に向かいました。駅の裏手も全くの瓦礫の山で、見渡す限り視界には人っ子一人いませんでした。工場への通い慣れた小道は、両側からの瓦礫で埋まり、僅かな凹みで道の跡だと見当が付きました。
意を決して道らしい瓦礫の中に足を踏み出しました。2~3歩も行ったでしょうか。なんと、私の足下に、人の肘から先の手が一つ遺(のこ)っており、すんでの所で踏みつけるところでした。子供の手だったのか、男か女か、右手か左手かさえも、分かりませんが、私は全身凍り付いて動かなくなり、もう一歩も先には進めなくなってしまいました。

私は先の「特攻隊」の時と同じようにまた絶望感に襲われました。今言えば「厭戦気分」・「戦意喪失」ということになりましょうか。その手は、誰の手かもちろん判りませんが、2~3日前までは生きて「活動」していた手です。
空襲でもがれ、何故か遺されてしまった。私はその手が平和を求めて、今も空(くう)を掴んだままいるように思えるのです。

それから私達一家は栃木の緑戚を訪ねて、そこで終戦・敗戦まで暮らしました。
「疎開」という言葉が使われますが、私は「疎開」ではなく「避難」生活であると思います。
私は中学の転校手続きを取って、県立烏山中学に通い始めましたが、3日間授業があったと思ったら、ここでも勤労動員。
宇都宮の東にあった工場で今度は寮生活。ここでは旋盤作業。ベルトで動く旧式の機械ですが、機械に扱い方を少し覚えました。
その時も空襲に見舞われ、宇都宮市内は悉く焼け落ちました。私は食糧不足と大豆など連日の食生活で胃腸を壊し、食欲も無くし、しばしば休んで家で過ごしたりしていました。

そして訪れた敗戦の日。私は腹痛で休んでおり、10人ほどの大人と一緒にラジオを聞きました。雑音で聞き取りにくかったが、戦争に負けたことはすぐに判りました。
「あーあ、これで助かったァ。もう特攻隊に行かなくてよくなった。空襲もなくなった。もう誰も僕を殺しに来なくなったァ」と大声で叫びたくなりましたが、心の中だけに止めて息を呑んでいました。

昨日まで「竹槍だ」「一人一殺」「一億玉砕」と叫んでいた人たちがその時何を思っていたのか?
そこで聞いていた誰も無言のままでした。これが当時の「世の中」でした。
どんな理不尽なことを強いられても黙って従うしかなかった世の中、一番大切なはずの命さえも何事もなかったように差し出すのが当たり前だった世の中、そんな世の中の復活は、どうしても許すわけにはいきません。

「満蒙開拓団についての感想」・・・星 みどり
(満蒙開拓平和記念館にて)

 

私の父は満鉄の社員(大工)でした。かと言って、帰国に際して満鉄だからとの特別優遇があったとは聞いてはおりません。
母の帰国はほんとうに大変だった、とのことでした。

母は、6歳の長女と大きなお腹(次男22年8月生)を抱えて、苦難の末に最後の同胞援助船?に乗せて貰い、大連から舞鶴に漸く辿り着けたそうです。
長男は戦況悪化ということで、ハルピンの 学校から直接内地に戻されていたらしく、その消息は容易に掴めず、母を苦しめたとのことでした。
帰国が遅れた一因は、消息を求めていたせいかも知れません。
祖父と次女は帰国前に亡くなっていたそうで、その墓は今では定かではないとのことです。

こうしたこともあってか、母は満州について多くは語りませんでした。そんな無口な母でしたが「ロスケ(ソ連兵)は怖かった」と話してくれたことを覚えています。よほど怖い思いをしたのでしょう。今更ながら、もっと聞いておくべきだったと思っています。

記念館の館長さんの話は、説明の満蒙開拓 団事歴の中から戦争の愚かさ悲惨さが伝わってきて、とても素晴らしく感動的でした。
語り部の仲田さんは、「開拓団は原野開拓などではなく中国人たちの土地(畑等)を、日本がただ同然で奪って与えたのが実態だった。だから恨まれても当然」「戦争は勝っても負けても悲惨なものだから絶対にしてはならない」と率直に誠実に話してくれました。
身内の反対で何も行動できなかった仲田さは、その身内が亡くなったことをきっかけに、館長さんの勧めもあって旧開拓地を訪れ、語り部になったのだそうです。

私は、その決意と熱意に励まされ心から感動しました。 仲田さんが、お元気でこからも語り継がれることをお祈りしたいと思います。

2018.10  「辺野古新基地建設反対諦めないで!」・・・田辺 久子  

赤嶺政賢衆院議員は終戦記念日の宣伝で、「沖縄では9月の始めまで戦闘が続き、8月15日の玉音放送を聴くことが出来なかった」と訴えていました。

8月11日には、8日に亡くなった翁長知事の哀悼の意も重なり「辺野古土砂投入許さない」県民大会に7万人が結集。東京でも東池袋公園に2800人が「辺野古新基地建設反対!」と、シュプレヒコールで池袋の街で訴えました。

政府が8月17日から土砂投入を通告してきていたので、沖縄では「8.17海上大行動」を呼びかけていました。私も友人と二人で辺野古基地阻止の気持ちを少しで表したいと 16日、朝9時、県庁前発の市民バスで辺野古へ行きました。
翁長知事の思いを逆なでしないつもりか、今月の土砂投入はないとのことになりました。
しかし、16日から県内外 から250人、 17日は、カ ヌー49艇、抗議船5艘が海に繰り出し、辺野古の浜で開いた集会には、450人が久しぶりに晴れた強い日差しのもとで「基地をつくるな!違法工事をやめろ!」とコールしました。
また、市民連絡会の北上田さんは、活断層や軟弱地盤で大浦湾側の工事は、全く目途が立っていないと強調していました。
辺野古ゲート前の私たちが座り込んでダンプカーの搬入を遅らせた場所が、以前の半分の道幅にする柵が出来ていてびっくりしました。 帰りのバスを降りて県庁で、翁長知事の追悼記帳をしてきました。9,412人でした。

「”創価学会の変貌”を読んで 」・・・石倉 領

読むほどに「発見」の連続、目からウロコであり当面する安倍の「九条改悪」の問題、 日本の未来にとって無視できないと感じた。
「池田大作氏が姿を見せなくなってから今年5月でまる8年になる。脳梗塞説が有力だが定かではない・・」「自民党の支持母体。二つの宗教潮流・・・ 自民党と安倍政権を二つの宗教が支えている。日本会議系宗教団体と創価学会である。しかし、選挙という直接的な貢献度を比較すれば、 創価学会の方が桁違いに大きい・・」(本書より)

「カメレオン政党」
「平和と人権」(平和と福祉)これが創価学会・ 公明党の原点だという説が独り歩きしている。
その党が、なぜ1992年のPKO協力法で反対から賛成に転じ、イラク特措法(03年)から最近の特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認閣議決定、安保法制(戦争法)、共謀罪、カジノ法と推進役を果たすのか。創価学会はなぜそれを容認しつづけるのか。」

70年代初頭、全国に社共連携の革新自治体が誕生し、7 2年総選挙で社共両党が躍進すると公明党は、にわかに革新色を強める。日米安保条約は即時破棄、自衛隊は違憲の疑いと唱え「中道革新連合政権構想」を発表する。
ところが70年代中盤から後半にかけて、自民・財界が“自由社会守れ”キャンペーン で反転攻勢に出ると、公明党は地方首長選挙で自民党との連携に走る。79年には民社党との間で「公民中道連立構想」に合意し80年1月 には飛鳥田社会党と「社公合意」をとりつける。狙いは「社共分断」であった。「問題は、公明党の『カメレオン』的変転は、常に創価学会=池田大作の指導と承認のもとで 行われてきたということだ」(本書より)

首相官邸と深いつながり
「首相官邸と太いパイプを持つ創価学会執行部の政治的影響力は、いまや重要政策の決定や政局をつくるという政治的権力行使の中核にまで及んでいる。」「重要法案では菅官房長官が(学会の)佐藤副会長と”落としどころ”を探っているともいわれる」アエラ16年1月25日号はそう書いた。(消費税関)(本書より)

憲法の立場から
憲法20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教的活動もしてはならない。20条に照らせば創価学会の現状はまさに憲法違反である。

憲法を守る立場から
創価学会・公明党はすでに「加憲」を唱えている。つまり、現憲法を守る立場から外れてる。安倍氏が更に首相として続く。その目玉は九条の改変であることはハッキリしている。これに対し創価学会・公明党がどのような態度をとるか見てみたい。
同時に私は学会員とは個別に九条の大切さを話していきたいし署名も頼みたいと思う。いよいよ九条を守る闘いが・・。

 

2019年 ブログ アーカイブ

2019.1 「幻冬舎新書 ”日本が売られる” の紹介」・・・松本 佳久  
いま評判の「沖縄と共に立ち上がろう」と「日本が売られる」…(税別860円)を読みました。
著者の堤未果さんは「ルポ貧困大国アメリカ」三部作や「政府は必ず嘘をつく」などなど、読み応えのある本を多数著しています。
ちなみに、夫は立憲民主党の参議院議員川田龍平氏です。

小泉政権下で「民営化」や「規制緩和」を主導し続け、国民の財産を民間企業に超安値で売り払ったあげく、さっさとパソナグループの取締役会長に收まってしまった竹中平蔵など「規制改革推進会議」のメンバーが、「今だけカネだけ自分だけ」の政治屋と結託して、「市場開放」「成長戦略」という美名のもと、アメリカ、中国やEUに密かに私たち国民の大切な資産を売り飛ばそうとしています。
例えば、12月6日に国会で成立した「水道民営化法案」です。これまで水道事業を運営してきた自治体が、浄水場などの施設を所有したまま運営権を仏スエズ社、米ベクテル社などの民間企業に売却できる「コンセッ ション方式」を促進していくことが決まりました。この方式を取り入れて、私たちにとって空気とともに欠かすことのできない飲料水を民間企業の手に委ねた各国は、その結果水質悪化や水道料の高騰を招いてしまいました。
現在その国々は水道運営を再び公営にもどしています。

この本では「水」以外にも、種(種子法廃止)、ミツバチの命(農薬規制緩和)、海(漁協法改悪)、労働者(高度プロフェッショ ナル制度)、ギャンブル(IR法)、医療(国保消滅)など日本の資産が根こそぎ売られる!と警鐘を鳴らしています。是非ご一読ください。

「安倍改憲阻止で労働界が団結」・・・秋山 晃
2018年12月14日日本労働弁護団主催による「安倍政権による憲法改悪に反対する集会」が開かれました。
集会には全労連、連合、全労協、中立の労働組合が組織の違いをこえて 一堂に会しました。
各労働組合の代表は、労働者を戦争に駆り立てさせないため安倍九条改悪を阻止し団結しようとアピールしました。

〇自治労の青木真理子副委員長は「安倍政権は住民の不安反対には耳を傾けずオスプレイの導入をすすめている。沖縄沖縄県民の人権を踏みにじる、辺野古対応は地方自治の否定と強調。日教組の則松佳子副委員長は「教え子をふたたび戦場に送るな。このスロ-ガンが今でも身にしみる」と発言しています。
〇日本マスコミ文化情報労組会議の南彰議長は「安倍首相は改憲しても自衛隊の任務や権限に変更はないと断言するなど事実と違う発 言をしている」と指摘。「メディアの労組として国民の共感を広げる取り組みをしたい」と語りました。
〇全建総連の勝野圭司書記長は「ものを破壊する戦争と建設産業は相いれない」と強調。「建設産業を戦争する道具にする国に反対しよう」と訴えた。
〇国労の佐々木隆一副委員長は「JRは自衛隊 員や必要物資の輸送のため労務の提供を強いられる。ベトナム戦争の時は、米軍・軍事輸 送の貨物列車が衝突炎上する大事故が起こった。今でも米軍の優先使用は続いている」と述べます。
〇航空連の和波宏明事務局長は「ベトナム戦争当時、武器弾薬を運んだのは米ノースウエ スト航空だった。これと同じことを日航と全日空にやらせたがっている」と指摘しました。
〇医労連の森田進書記長は「先輩たちが従軍医師、看護師として戦地に送られ命を失った。 負傷兵の自害に協力させられ、もう一度戦地に送るため治療した」と先輩達のつらい体験を語り「ふたたび白衣を戦場の血で汚さない」と表明ました。

安倍内閣は12月21日2019年度予算案と税制改正大綱を閣議決定した。消費税10%への引き上げには対策を講じるとしていますが対策には多くの国民が反対をしています。
軍事費は過去最大となり、その一方で社会保障は大幅削減。まさにアメリカと大企業ベッタリ、戦争大好き内閣ではありませんか。
こんな捏造、偽造、改造安倍晋三内閣を許すわけにはいきません。次の統一地方選、参院選で退陣のキッカケをつくりましょう。

2019.4 「3月10日の”憲法と沖縄を考えるつどい”」・・・松本佳久(高島平九条の会事務局)

(15周年記念集会-350名参加)

「憲法と沖縄を考えるつどい」に300名を超える参加をいただきありがとうございました。内70人からアンケートもいただきました。みなさまから寄せられた感想を紹介します。紙面の都合上、一部だけの紹介です。ありがとうございました。

●憲法を守るために行動を起こすこと、あきらめないことを心に決めました。若い人たちをどう闘いに参加させられるか沖縄の県民投票への取り組みを参考に考えたい。(70代以 上男性)
●憲法も沖縄も心を揺さぶられる話だった。日本は非武装こそ真の防衛だということを示さねばならないと思う。現政権はお引き取り願おう。(60代男性)
●本日は片道1時間半をかけ、遠路はるばる来 たかいがありました。伊藤さんの力あふれる言葉に、改めてパワーを頂きました。又、日頃から心を寄せ心を痛めることしかできない自分のひ弱さを情けなく感じていたのですが、自分なりにしぶとく諦めない日を燃やし続ければ、それが自分の戦い方でいいのだと思えるようになりました。(60代女性)
●伊藤さんの話は面白くて、事実に基づいていて引き込まれました。しっかりとした見識を持つ事、持てるような生き方をしないと。あと残りの人生を全うしたい。(81才女性) ●伊藤さんの話には、元気と勇気をいただきました。9条の価値が世界に拡がっていることに確信を深めて。山城さんの話は若者とくに10代の人びとが立ち上がったことに感銘を受けた。勝つためにはあきらめないこと。あきらめないためには楽しく闘うこと。連帯の力で支援していきたい。(70代男性) ●伊藤さん、大変良かったです。説得力があり、あらためて憲法九条の大切さを知り人に話したくなりました。山城さん若い人の活やくを聞いて感動しました。歌をうたって明るくしていいですね。沖縄の現場が改めて大変だと思いました。私達も協力したいです。(70代以上女性)
●憲法前文、九条の朗読をして下さった依田さんに感動しました。フルートも大変良いBGM になったと感心しました。 伊藤千尋さん、山城博治さん共に力強く、益々共に頑張りたい。(60代女性)
●9条のこと、世界に影響をおよぼしていることを知り、9条の大切さを再確認した。日本の国のビジョンのなさをはずかしく思う。 沖縄の現状を知り、あきらめないで、新基地阻止しよう、を合言葉にまずは家族に伝えたい。(60代女性)
●大変元気出ました。玉城知事が、米・日・ 沖の三者会議をアベに申し入れましたが無視されました。良い案だと思いますが!(70代以 上女性)
●TV・新聞だけではわからない生々しい世界の話から希望が伝わってきました。沖縄の闘いは勝たせたいと思いました。(70代以上男性)
●つどいにベストな講師でした。デモが政治を変えると聞いていたが、デモにいくら参加してもこれが力になるのかと思っていたがスゴイ本当に変えられる。デモにみなで参加しなければ! 沖縄基地、気を取り直して戦法を考え考えねばり強くがんばっている沖縄から来てくれてありがとう、応援するぞー!(60代女性)
●沖縄、今の我が日本のこと、変えましょう。来てよかった。たくさんの、知らないこと、知れた。思った、考えた。今日、来るのをいちど「やめよう」と思った。来て、私の中に 沖縄・憲法のこと(問題)は、とおい国の様なことにおもっていた。恥ずかしかった。回りの無関心なひとといっしょではないかと。「 闘いに勝つ秘訣はあきらめない事」ひびいている。楽しく希望を持ってすすみましょう。 (50代女性)
●山城博治さんの講演で、今まで全く無知に等しかった自分の沖縄に関しての知識が変えられ、正しくして頂きました。感謝でした。「あきらめません」(70代以上女性)
●考えたら、4年前、はじめて沖縄旅行に行きました。辺野古で座りこみし、高江まで行きました。ここからベトナム戦争時、ここから米軍機がとびたったことをはじめて知りおどろきました。沖縄の歴史も知り、第二次世界大戦で唯一地上戦となった地、沖縄です。なんとしてもアベを、自民党、公明党たおしたい。共にがんばります。(60代女性)
●憲法について、小・中・高校できちんと子ども達に教える事が大事です。(70代女性)
●伊藤さんの話は何回も泣いてしまいました。 沖縄県民投票で10代がほとんど反対だと山城さんの話で知りました。企画された高島平九条の会、ありがとうございました.(50代男性)

※ 「憲法と沖縄を考えるつどい」アンケートの集計 参加者約320名、70名から回答を頂きました。ご協力ありがとうございました。
◆ 本日のお二人の講演をどう思われましたか
伊藤千尋さんの講演 /大変良かった63名(90%)、 良かった5名(7%)、 普通0、 良くなかった0
山城博治さんの講演 /大変良かった55名(70%)、 良かった 7名(10%)、普通 0、良くなかった0
◆ この催しを何で知りましたか 1、チラシを見て 19名 (27%) 2、知人に誘われて 31名 (44%) 3、新聞等の案内を見て 17名 (24%)(朝日8名、東京6名、週刊金曜日2名、赤旗1名) 4、その他 3名 5、九条の会 17名
◆ あなたは― 〇をお付け下さい/ 女性 31名(44%) 、男性30名(41%) 、無回答9名(13%) 年代/10代0、20代0、30代0、 40代1名(1%)、50代3名(4%)、60代20名(29%)、70代以上 46名(66%) (伊藤千尋さんの記念講演)

2019.7  「安倍改憲許さない」・・・高野 勇 

5月19日、新緑の区立平和公園で「板橋憲法集会」が開催された。
集会は高橋大輔さんと山内金久さんのトランペットで開会し、北部合唱団による「青い空」が歌われました。
スピー チは、大仲尊さん(沖縄一坪反戦地主会)。 岡本達思さん ( 放射能モニタリング)。坂本宏さん(東大名誉教授)。朝岡勝さん(キリスト教会牧師)。田原佳幸さん(大山を守る会)。中本源太郎さん(主催者代表)など、
それぞれの立場から暴走する安倍政権を倒そうと決意を表明をしました。

集会には500人が参加し、見次公園と常盤台コースに分かれピースパレードをおこないました。
5・25国会包囲行動には5000人が参加。 安倍政権の民意無視に怒り。辺野古新基地、県民投票で7割が反対しても底なしの大浦湾に土砂投入を続ける安倍晋三。誰も止める人もいない。自公議員に異議を唱えるまともな議員はいないのか!信じられないがこれが現実だ。民主主義も地方自治も完全に無視する安倍晋三 。
なんのめに憲法があるのか説明しろ!怒 ‼

「地元の大学での高遠菜穂子さんの講演」・・・松本 佳久
(講演する高遠菜穂子さん)

2014年11月9日開催の高島平九条の会10周年のつどいで、「イラクと日本国憲法-暴力 の連鎖の中で考える-」の講演をしていただいた高遠菜穂子さんが、6月15日に大東文化大学高島平校舎で 「命に国境はない-子どもたちの未来(あした)のために 大人や教師は何をすべきか?!」の講演が行われたので出席しました。

この講演会は、2016年12月に「 許さない! 戦争法オール板橋」主催のタウンミーティングで教育についてお話された、大東文化大学の渡辺雅之先生の教員養成講座で、市民の聴講もOKというので出席しました。
参加者のほとんどは学生でしたが、多数の民間人を犠牲にした米軍のファルージャ総攻撃は2004年ですから、当時は3~4歳です。
日本は欧米サイドのニュースしか報道されない情報鎖国状態なので、学生はイラク戦争 のことはほとんど知らされていません。高遠さんの話は初めて聞くことばかりだったのではないでしょうか。

「10周年のつどい」でお話いただいた2014年当時は、イラクの一般市民がIS(イスラム国)に虐殺されていた時期だったので、日本国内で「憲法9条を守れ」と叫んでいるだけの九条の会の活動に高遠さんは懐疑的だったのではないのかとの印象も持っていました。

現在高遠さんは九条の会の世話人をされており、「憲法9条で日本が戦争をしない国であることを守るだけではなく、他国の戦争を止める国にならなければならない」と発言されています。

2019.10  「消費税」・・・徳永 國夫
(共謀罪反対! 消費税増税反対!)

 

消費税はどんな馬鹿でも考えられる税金の手段だ。(自民党だね)国民から選ばれた議員が、こんな単純な手段を選ばないで欲しい。もっと頭を使って、幾つかの方法を国民に示すべきだろう。出来ないんだろうな。(自民党、公明党)税のアップを誤魔化すために、軽減税率などを持ち出して、レジの煩雑さ、国民の迷惑おかまいなしの軽減策。(公明党の愚作)
日本の今の生活の現状は年寄りには厳しく、 若者にはもっと厳しく。誰のための政治なのか。 年金を減らしては、若い世代の将来の計画が立てられなくなる。派遣法が拡大され、若者はなかなか正社員になれない。
年金を減らしては、老人の唯一の楽しみである買い物を躊躇させてしまう。買い物はお金を使うと共に、店員との会話を楽しみにしているのだから。そんな現状で消費税をアップするなんて。 消費税を導入している国々を調べてみたが, 老後の保障がしっかりしている国はそれなりの消費税を採用しているが、老後の保障が脆弱な日本では消費税は0.0%でよい。
国民の格差を広げないように軍事費は不要。(日本は戦争しないのだから)
「板橋区議会で ”意見書” 採択」・・・菅原 優

全国の地方自治体で政府に「核兵器禁止条約の批准を求める」意見書の採択が続いています。
9月27日、板橋区議会企画総務委員会で、板橋原水協が提出した「核兵器禁止条約批准を政府に求める」意見書提出を求める陳情が、公明党、日本共産党、市民クラブなどの多数で採択されました。自民党は反対、民主クラブは棄権。当初継続審査を主張していた公明党が、賛否をせまられ賛成に回りました。

意見書案では「核兵器は意図的であろうと偶発的であろうと使用されれば人類の文明が滅び、次世代に今の状況が引き継げないことは明らか」だと告発しています。(しんぶん赤旗10/1)
広島・長崎の被ばく者は「私たちを核の最後の被害者にしてほしい」と核兵器の廃絶を強く求め長年運動してきました。それが全世界の人々と国を動かし核兵器禁止条約の採択に結びつきました。

唯一の戦争被爆国の日本政府は、核保有国に「条約への参加」を積極的に働きかけ、世界と地球を滅ぼしつくす「核兵器廃絶」のためにリーダーシップを発揮すべきです。
そして、まず日本が「核兵器禁止条約に参加し条約を批准する」ことが求められます。
安倍政権がそれを拒むなら、市民と野党の協力共同の力で、安倍政権に変わる政権を、みんなでつくりましょう。

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